相談No.2264

他者を敵視する傾向があり、それをやめたい

挿絵20代後半、既婚女性です。子供はまだいません。

アドラー心理学の名著『嫌われる勇気』シリーズを読みました。そこに書かれていた「他者を仲間だと思い、仲間に貢献することで所属感や幸せを感じることができる」という考え方に「確かにその通りだろう」と納得したのですが、まずは身近な人間関係で実践してみようとしても、どうしても「仲間」と思うことができずにいます。むしろ「競争相手」や「敵」に近い意識を抱いてしまっています。

私は「老子」の考え方もすごく好きで、アドラーや老子が唱えるような世界観で心穏やかに生きたいと思っています。なのに、自分の人間関係に落とし込むことができないのです。

いきなり「仲間」と思えなくても、まずは誰のことも「敵」と思わず、心穏やかに過ごせるようになりたいです。そのためにどうしたら良いか、一緒に考えてくださると嬉しいです。

まず、なぜ競争心や敵対心を抱いてしまうのか。自分の中で出した一つの結論として、「自分は優れているから軽視されるべき存在ではない」と、自信を保ちたいからではないかと思っています。プライドが高い、とも言えると思います。

また他の要因として、私は「人間の精神性」に対して潔癖症すぎるのではないかとも感じています。例えば、浮気する人・人によって対応を変える人(媚びを売ったり、人によっては軽視したり)などに対して、強い嫌悪感を抱いてしまいます。また、そのような人のことを慕っている人に対しても「見る目ないな」と蔑んでしまいます。

どちらにせよ「自分の価値」を守ろうとしているんだな、という自己評価です。

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ここからは、私のこの人間関係の土台を形成することになった(と思う)過去のエピソードを書いてみます。考察の一助になれば。

(中略。中学時代、あまり友達がいなかった。学業の成績が良かったことだけがアイデンティティで、存在感がなかった。彼氏ができたが部内恋愛禁止で別れさせられ、その彼が後輩女子と付き合って憎らしかった。等)

元カレや後輩、他の部員たちをひとしきり心の中で見下し、罵倒した後に残ったのは、軽んじられる存在でいたくないという気持ちだったと思います。

「私がもっと可愛ければ、クラスでも人気者になれたかな」
「もっと人望があれば、部長としてしっかり務まったかな」
「もっとハッキリ主張できれば理解してもらえたかな」

もっとこんな自分だったら……と、if の世界線を妄想したりして残りの中学時代を過ごしました。

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この出来事を経て、「自分がいかに大切な存在として認められるか」に執着するようになったと思います。高校生・大学生になっても、自分の存在感を最大化させるために試行錯誤していたように思います(思い出すと痛々しい気持ちになることも多々……)。

だんだんと大人になる中で、うまく折り合いをつけられるようになってきました。程よく自分をアピールする適切なふるまいも身についてきました。それでも、いまだに「自分の価値」を保つために心の中で人を見下したり、敵対視したりしてしまいます。繋がりのある人だけでなく、その場に居合わせただけの他人にまで、敵対意識が働いてしまいます。

人より優れていなくても、普通であってもいい。頭では色々わかっているんです。わかっているからこそ、早くこの思考回路から抜け出したいです。人を嫌いになったり見下したりすることに余計なエネルギーを使っていて、もったいないと自分でも思います。

もっと好きなことに没頭したり、夫や妹など大切な人との時間を楽しんだりして、自分の人生の時間を豊かなものにしたいです。そしてその先に、他者を仲間として感じられるようになれたら、もっと心満ち足りた人生にできると思っています。

とても長くなってしまいましたが、何かアドバイスをいただけたら幸いです。

よろしくお願いいたします。

校長の回答

いい方向づけができているし時間の問題では

挿絵校長は、アドラー心理学の他者信頼みたいな、心のぶん回しが好きじゃないんだよな。他者を仲間とみなし…みたいな「感じ方」を直接いじる話は好きではない。そんなのって、階段を何段も飛ばして、例えば「旦那を愛せば喧嘩が減るよ」と言ってるような感じがしてしまうんだよな。他者を仲間だとみなそうとしてみなせるのかいな、それは何かの結果としてそうなるものでは、と思うし。

だから校長は「人の気持ちを、その立場になってイメージしてみる」とか言うんだよな。それはアドラー心理学が言うことと結果として同じかもしれないけど、「他者を信頼する」を掲げるよりも、できることだよな。まぁ校長も、アドラー心理学が言う他者貢献みたいなことも言うけど、それも「他者に貢献せよ」じゃなくて、例えばパートナーを笑顔にできてないと自分が居心地悪くなって損するっしょ、ちゃんと関係をメンテしたほうがいいよ、みたいな感じなんだよな。校長としては、直接できることを言いたいし、自分のためにそうしたほうがいいと思うことを言いたいし、いきなり他者を仲間だとみなそうよなんて、気持ちわりーよ、そんな立派じゃねーよって思っちゃうけどな。

君はもう最初から全部ちゃんと解説してしまっているし、よく分かってるよなぁ。人の精神性について潔癖すぎるのではないかとか、自分は軽視されるべきではないと感じているとか、よく分かってる。分析はばっちりだよなぁ。

それでもう、そういう風になりたいという価値観が生じていて、方向づけもばっちり。

だとすると足りないものは?まぁ一つは「時間」だよな。君はもう、なりたい方向に歩み始めていて、あとは時間とともにそうなっていくんじゃないかなぁと。

それともう一つ必要なものは、「どちらにせよ『自分の価値』を守ろうとしている」と言っていることからも分かるように、自分の価値に追われ過ぎないようになることだから、つまりは君が幸せになっていくことなんだよな。ただ、すでに「もっと好きなことに没頭したり、夫や妹など大切な人との時間を楽しんだりして、自分の人生の時間を豊かなものにしたい」と言っちゃってるからなぁ。他者を仲間だと思うことなんかより、ずっと近くにある、[
「そのためにやるべきこと」が分かっていると思う。

だけど、校長が言った「その人の気持ちをイメージしてみる」は、ぜひやってみてほしいな。それはいつも言うけど、全然道徳的な話ではなく(そういうのは好きではないので)。自分のドキュメンタリー番組のようなつもりで。あの立場、あの経緯、あの性格などで生まれたら、どうなんだろう。(例えば苦しんでいる人に)あの背景があって他に道があったんだろうか、とか。自分だって「こうしたいのにできない」だらけなのにな、って。校長がこうやって一人一人にフォーカスを当てているからそう思うのかもしれないが、それぞれの思いを知れば、敵対的な気持ちにはあんまりならないんだよな。まぁもちろん、全員に共感できますとか、そんな立派なものではないけどな。聖人になりたいわけでもないし、ふつーに許せないこともいっぱいあるし。

あと言いたいのは、君の持つプライドとか競争心とかは、絶対に良いところなんだよな。そういう人のおかげで人類が前に進んでいるというのもあるし。だけど、必ずしも見下しや敵対心はセットである必要がないから(でもその方向性の人に自然に育つものでもあるから)、まぁそっち側の性格の人の課題だということだよな。埋めていくべき課題はあっても、自分の良さは失わないでほしいなと思う。君は当たり前に持っているものでも、認められたい、負けたくない、というのは願ってもなかなか湧いてこない人がいっぱいいるのさ。ただの牙が抜けただけの人にならないよう、そういうところは本当に大事にしてほしいなと思う。他者を見下さずに、敵視せずに、ただプライドを高く持って自分が伸びる、だな。

あんまり心配にならない人だな。そんなこんなでいいのさ。いま持ってるものも素晴らしいし、いい方向づけがもうできているし。

ふんわりした回答だけどもそんなとこだな。

君の良いところが守られながら、少し力が抜けますように。そして君がなりたい自分に少しずつ近づいていけますように。