タイトル「寂しさ」
▼下記の事例を読んで正しいと思うものを一つ選んでください。
【事例】
とある女は、あるとき、3年付き合った元彼が結婚するという話を聞いて、なんだかショックを受けてしまった。もう別れて二年が経っているし、別れたときは彼女に好きな人ができて彼女から振ったわけだし、べつに彼女側に未練はないのである。しかしショックを受けてしまった。
彼女はいま彼氏もいるし、それなりに過ごしている。だからこそ元彼の結婚にショックを受ける自分がよく分からないし、今の彼氏にも言えないし、なんだか申し訳ないという気持ちにもなるのであった。
▼選択してください。
【校長の解説】
未練もないし、よりを戻したいとも思っていない相手である。そんな元彼が結婚しようが何ら問題ないはずであった。彼女の理屈ではそうだが、彼女の気持ちはそうではなかった。いったい何にショックを受けたのだろうか。
彼女がいま元彼のことを好きではないとしても、自分に所縁(ゆかり)のある相手、3年も付き合ってたくさんの心を交わした相手が遠いところにいってしまう感じというのは、寂しいと感じるのである。自分の存在を証明するものの一つが、遠くにいってしまう、消えてしまう、と思うのは寂しい。自分にとって、すでに元彼がどうでもいい存在になっていればさほど寂しくないかもしれないが、一つの思い出としてそれなりに大きいと感じるときには、「あんなに自分を愛してくれた人が他の人と結婚するなんてなぁ」と思ったりして寂しいのである。
「寂しい」というのは何かというと、自分の存在が小さくなっていると感じることである。そして自分の存在というのは、自分に所縁(ゆかり)のあるものによって支えられている。例えば多くの人にとっては親であったり、自分を思ってくれるパートナー、友人などである。
しかしながら所縁というのはもっと様々なところに散らばっていて、例えば地元意識であるとか、国家、民族、自分の家、よく見る景色、お気に入りのレストラン、愛着のあるぬいぐるみ、などもそうだろう。例えば親の都合で引越を繰り返し、友達も目まぐるしく変わる、風景も変わる、家も変わる、となると自分と深く関連付けられるものがだいぶ減ってしまい、寂しくなるものである。
小学校からの帰り道にあったツタだらけの妖しい民家が取り壊されるらしい、というだけでも少し寂しい気持ちになるだろう。笑っていいとも(二十歳ぐらいの人が知っているか疑問だが)が終わる、なんとなく見ていたよく知っている番組が終わる、というのもなんだか少し自分の存在が不安定になるものである。サザエさんがもし終わるなどということになれば、これといって見たいと思っていない人でも、なんだか落ち込んでしまうのではないだろうか。視聴率に貢献するほどは見ない、でもなくなったら困る、と感じる人がかなりいると思われる。サザエさんや笑っていいともぐらいになると、もはや日常でありそれぞれの存在の一部に入り込んでいて、失うのが少し怖くなってしまう。
それでも新鮮さや発展することを欲して、新しい彼氏彼女に乗り換えたり、地元を離れて東京に出たくなったりする人がたくさんいるが、寂しがりの人ほど所縁あるものをたくさん作っていけるよう工夫したほうが良いだろう。変わらないもの、自分を関連付けられるものの量が増えれば増えるほど、心は安定しやすくなる(とはいえ諸条件に左右されるから仕方がないこともたくさんあるが)。
校長も、いろいろな人から、校長こんなことがありましたとか、校長聞いてくださいとか言われるたびに、自分の存在を濃く感じられる。不必要な存在でいるよりは、愚痴り先としてでもニーズがあるというのはありがたいものである。
自分を関連付けるものは多いほうが良い。自分の存在をできるだけ安定的なものだと感じるには、という視点もたまには持ってみると良いだろう。