タイトル「気持ちは本物だと信じる」
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挿絵【事例】

とあるカップルの彼女は、彼氏に「重い」と言われることが多い。今の彼氏と付き合って一年ほど経つが、半年前ぐらいからそういうことを言われるし、自覚もあった。

彼女は素直に「寂しい」ということを彼氏に伝えるのだが、「友達と遊べばいいだろ」と言われてしまう。彼女は確かに顔が広くて、彼氏よりも友達も多いのである。だから、彼氏には「そんなに友達と遊んでて寂しいはずがない」と言われるのだが、寂しいものは寂しいのであった。
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play_arrow どちらかというと彼女よりも彼氏のほうが寂しいと言える play_arrow 彼氏は決めつけるようにものを言い過ぎだと言える play_arrow 彼氏が言っていることは正しいと言える

【校長の解説】

挿絵彼女は友達が多くていっぱい遊んでいる。そんなに友達と遊んでいて、寂しいはずがない。というのは明らかに決めつけである。そもそも友達と彼氏から得られるもの(友達と彼氏に期待するもの)は違うし、彼女は彼氏に期待しているものが満たされず、寂しい思いをしているのである。例えば毎日何をして過ごしたかとか、彼氏には気にかけてほしい。そうやって彼氏だけに期待することというのがあり(内容はそれぞれ異なるが)、それが満たされないから寂しいのである。

「友達と遊びまくってるんだから寂しいはずがない」という決めつけは、恋愛ではご法度だろう。相手の気持ちに配慮しきれないとか、相手の気持ちを優先できない、というのは様々な事情があって仕方がないことも多々ある。だが、最低限「相手の気持ちは本物だと信じる」というぐらいはしないと、心を通わせることは難しいし、恋愛のスタートラインにも立っていないのではないだろうか。相手が寂しいと感じていること、その事実すら信じられなかったら、いったい二人の間には何の信頼があるのかというぐらいである。

相手の気持ちに配慮するとか、相手の気持ちになったつもりで考えてみる、というところまで本当は求めたいぐらいなのに、「相手の気持ちが本物である」というのを信じるところからおぼつかないようでは、その関係は危うい。

これはとても基礎的で当たり前のことのようで、意外とおろそかになっていることでもある。

例えば今、世間では、若者を中心にこれこれこういうバンドが流行っている、という噂を聞くとする。そこで「どこがいいの、あんなの。馬鹿みたい」と思うのはいいが、とりあえず、とんでもない数の人の心を掴んでいるという事実はそのまま無視しないほうが良い。自分の評価はともかく、それが好きな人にとってどんな気持ちなのかなとか、どういう見え方をしているのかなとか、そういう風に考えてみたほうがいいし、実際にそれだけの人の心を掴むんだから何かがあるんだろう、というぐらいは捉えておいたほうが良い。例えば音楽性が残念だと思って切り捨てるのではなく、そのスタイルとか考え方とか、もしくは売り出し方とか、何かを極めているからこそそうなるんだろうと捉えていたほうが良い。そこに何もないかのように捉えるとか、ただ馬鹿が騒いでるだけと捉えるとかより、そこに大量の心が動いている事実を認めたほうが、世の中の実態を正確に把握できるはずである。

自分の感じ方や価値観に追われて、人の感じていることを面倒くさがって無視する、決めつける、押しつける、という人は少なくない。だがそういうことを繰り返していると、現実に見合わないトンチンカンな理屈を展開したり、ピントのズレたことばかりを言うようになったり、言っていることは真っ当でも全然人の心を捉えなかったりするのである。人がどう感じるかに常に興味を持って過ごしたほうが、ズレが減るだけでなく、自分の器が広がったり、多様性に感動したり、自分というものがより正確に分かったりするだろう。人との心も通わせやすくなるし、人を否定しづらくなるから、信頼もされやすくなる。

例えば彼女が泣いているとき、その「泣いている」という事実を深く考えない彼氏は多い。よくよく自分に当てはめて考えてみれば、「泣く」というのは結構な心の動きだと分かるはずだが、漠然と彼女が泣いたとしか思っていないのである。泣く、という事実の重さを感じ取って、泣くぐらいなんだからよっぽどなんだろう、どんな気持ちか想像しなきゃ、と考えてみてほしいのである。そんなことを当たり前のようにやっていて考えすぎてつらくなっている人もたくさんいるが(現実より大袈裟に捉える人もいる)、その一方で、他人の心は他人事として全く何も考えていない人もまたたくさんいるのである。

校長も、人の気持ちが本物であるということを信じたところから衝撃が走り、世界ががらっと変わったものである(ときにそれが怖くなったりもしたが)。だが、本来であれば、それは恋愛や人生を考える上でスタートラインだろう。それがなければ、どんな精神分析も恋愛論も人生訓も、全て空論である。