タイトル「ギプス」
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挿絵【事例】

とある高校生の女は、最近バイト先で少し気になる人がいてアプローチすることも考えていたが、相手がなかなか偏屈な性格だということを知り、ためらってもいた。というのもその彼は、みんなの前で「なんでみんな付き合うのかがよく分からない」「なんで付き合うと誕生日を祝わないといけないのか意味不明」などと言っていたからである。

彼女は普通に付き合いたいし誕生日も祝ってもらいたいという人である。なんだか彼には近づきがたい感じがして、どうしようかと悩むのであった。
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play_arrow 付き合わなくても成立する恋愛は当然あると言える play_arrow 彼は損得勘定で考えすぎだと言える play_arrow 彼の考え方は間違っていると言える

【校長の解説】

挿絵彼の言うことも間違ってはいない。べつに付き合おうなどと誓い合わなくても、お互いの気持ちが強ければそれで恋愛は成立するだろうし、愛情が深ければ自然と誕生日を祝ってあげたい気持ちにもなるだろう。特に「付き合う」という形を取る必要はない。

このサイトでは何度となく言うことだが、「付き合う」というのは一種の約束(誓い)である。お互いに信頼に応えましょう、そのためのそこそこの義務を背負い合いましょう、という約束である。そういう約束をすることで、普通ならもっと時間のかかる信頼関係の構築を三分の一に短縮できるとか、そういう効果がある。昔の人は、同盟を結ぶために指を噛み切って血を流して印を押したりしたが、そうやって覚悟を示せば示すほどに人を信頼しやすいからである。

だが付き合っていると、不自由さが増すこともあるだろう。義務的に誕生日を祝わないといけない気持ちになったり、他の人と簡単に遊びづらくなったり、一人でゲームに没頭しづらくなったりする。お互いに共鳴して信頼を深めるというメリットを享受した代わりに、不自由さを背負った(自由を犠牲にした)のである。

「付き合う」というのは、そこそこ人工的で意識的な制度である。これを、例えば歯の矯正だとか、骨折したときのギプスだと考えてみてほしい。ギプスは、折れてぶらんぶらんになった患部を固定するのに有用だが、治った後は邪魔なものだろう。このような人工的、形式的、固定的、意識的なものというのは、自然にまかせておくと不都合なものを一定のところまで持っていくためにとても有用だが、一定のところを超えると邪魔になるもの、なのである。

例えば同棲したときの家事ルールはどうだろうか。ルールというのも、不信感に満たされた二人には必要だろう。どちらかが洗濯をしないといけない。しかし、お互いが気付いたときにしっかりやって、ときにサボりたい気持ちなどに対して思いやりが充分にあれば、ルールなどいらないしむしろ邪魔になるのである。ルールを超えて充分に成熟した二人ならば、ルールなどいらない。社会全体で見ても、思いやりとか臨機応変さが減って権利を主張する人が増えると、ルールが増えるし、ギスギスした世の中になるだろう。ルール以下の人間が増えればルールが必要だし、ルール以上の人間が増えればルールが邪魔になるのである。

例えば中学校の入学式で、隣にいる人に「友達になろうね」と言うことはあるだろう。これといって信頼関係もないとき「友達」というラベルからスタートすることは、一定の効果はあるのではないだろうか。しかし自然と形成されていった友達関係が、もう充分過ぎるほどに深まったときには「私たちって友達だよね」と言い出したりはしないだろう。むしろそんなことを言われたら、気持ち悪くてムズムズするのではないだろうか。「友達」という、「関係性につけた名前」を実際の関係性が超えたとき、もう「友達」という名前はいらなくなるのである。べつに関係性の名前など何でもいい、おれとお前は、おれとお前だ、ということになる。

「付き合ってるんだから」「普通、結婚してるなら」などと関係性について言いたくなったとき、その二人は、関係性のラベルを超えていないということになるだろう。ラベルにふさわしくない付き合い方しかできていないという危機感があるから、ラベルを持ち出して、ギプスのようにとりあえず最低限のところまで固定したいと思うのである。

言葉もそうである。思いや情報が伝わらないとき、言葉があったほうがいい。しかし思いや情報が充分に伝わっているときには言葉はいらないだろう。例えば充分にみんなに伝わって笑いが起きたときに、今起きたことの何が面白いのか説明したら、それは野暮である。しかし全く伝わっていない外国人のために日本のジョークを説明するのなら、意味はあるのではないだろうか。

他にも、常識だとか、マニュアルだとか、いろいろあるだろう。これらギプス的なものは、一定水準までには有用であるが、そこを超えると邪魔になる、ということを覚えておいてほしい。